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「客観的」とは? not MapleStory

今回は久しぶりにメイプルストーリーの話題から離れて、「『客観的』って何だろう?」という話をしたいと思います。




話し合いをする際、「客観的」な意見を述べられるスキルがしばしば求められます。この「客観的」な意見というのは、「主観的」な意見に比べ、有用なものとしてしばしば重宝されます。それでは、「客観的」な意見とは一体どのようなものなのでしょう?


【客観的】 ……goo国語辞典より
個々の主観の恣意を離れて、普遍妥当性をもっているさま。

【客観的】 ……三省堂国語辞典より
1.自分だけでなく、だれの目にもそのように見えるようす。「客観的に考察する」
2.主観とは関係なく、外にあるようす。「客観的な事実」


「客観的」な意見とは、どうやら「主観・個・自分」が排除された意見のようです。主観を離れることで、多くの人に普遍的な説得力を発揮することができるから、「客観的」な意見というのは重宝されるということでしょう。

さて、ここで問題提起。意見を述べるのは、誰にとっても「自分」です。「自分」が「自分」を排除した意見を述べることなんて本当に可能なのでしょうか?




まず、上の国語辞典の定義を見てみます。何故世の中には国語辞典がいくつもあるのでしょう? 正解は簡単、言葉の意味が一意にならないからです。言葉とは、地域によって変化し、時間とともに変化し、人によって意味が異なるものです。私たちには何年も何十年も積み重ねてきた人生経験があります。その経験の中で、互いの言葉の意味というのは少しずつ違いを持ってしまい、言葉には何かしらの主観が含まれることになるのです。語の意味を客観的に定義できるのならば、国語辞典はそれを載せた唯一のものがあれば済むはずです。

私の「主観」による言葉で思考をする以上、私の思考も私の「主観」から逃れることはできません。客観的な意見なんて述べようがないんです。私が、私だけの言葉を使って、私の思考をまとめる以上、その思考から生まれる意見が客観的であるなんてあり得ません。

私は、自分の意見の枕詞に「客観的に言うと~~」とか「客観的に見て~~」とか言う人がいたら、眉に唾をつけて聞くことにしています。自分が客観的にものを見ていると考え、偏っている可能性を考えない人は、往々にその意見も偏りがちになるからです。自分の意見に自分の主観が含まれていることを考慮し、常に自分が偏っている可能性を考える人は、その偏りを意識しながら話すために、自覚がない人よりも偏りの少ない意見を述べることが可能になるでしょう。私はよく自分の意見を述べる際に「~~だと思う」という言い方をしますが、これは自分の意見が自分の主観から逃れられないことを意識しているからです。

ゲーデルの不完全性定理という数学の定理に、「ある体系は、その体系の中から自らの無矛盾を示すことができない」という定理があります。ある体系を「自分」と読み替えれば、「自分が正しいことを、自分では証明できない」ということになります。これは数学の定理なので、こういった強引な拡大解釈はあまり良くないですが、自分という枠組みの中で自分を評価することの難しさ、主観という枠組みの中で客観を扱うことの傲慢さを感じることのできる定理だと思います。




誰しも自分の主観を排除して思考をすることはできず、本当に「客観的」な意見なんて存在しません。

それでは、普段「客観的」と言われている意見はどのようなものでしょう? 実は、小手先のテクニックで「客観的」という評価を得ることができます。

 ・全ての意見のメリットを認める。
 ・全ての意見のデメリットを認める。
 ・グラフや表、箇条書きを用いる。
 ・全ての文脈に因果関係を持たせ、理由のない意見を述べない。
 ・平易過ぎる言葉を使わず、熟語を多用する。

もっと他にもテクニックはあるのでしょうが、本筋ではないのでここでは割愛します。
メリットやデメリットをまとめるのは自分自身です。どのようなグラフ・表・箇条書きを用いるかを決めるのも自分自身です。文脈の中の因果関係を見い出すのも自分自身だし、言葉遣いなんて説得力を増すくらいの働きしかしません。全て自分という「主観」の枠組みの中からまとめた意見にもかかわらず、こういった特徴のある意見はしばしば「客観的」であるという評価を得ます。しかも馬鹿馬鹿しいことに、この「客観的」だという評価を与えるのは、結局のところ誰かの「主観」にしか過ぎないのです。
恐らく「客観的だ」と言う人の多くは、「客観的である」ことと「説得力がある」ことを混同しているのではないでしょうか。




私は生まれて23年間、私以外の人間になったことがありません。常に「主観」という私色の色眼鏡をかけてものを見ています。この色眼鏡を外すことは不可能でしょうし、外したら私が私でなくなってしまうので外す気もありません。ただ、自分が色眼鏡をかけてものを見ていることを知っていれば、他の色眼鏡をかけている他人と話す際に互いを理解する助けになるのではないでしょうか。
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テーマ:ことば - ジャンル:学問・文化・芸術

2008.06.06 | | Comments(1) | Trackback(0) | 雑文(*=д=)

コメント

たしかに、そうかもしれませんね。

上記で言われているとうり、すべての思考や思索は主観の上に成り立っているのかもしれません。その主観から逃れるのもなかなか難しいですね。

一般的な客観的意見なども、それを客観的なのかどうかを判断するのは自分の主観のため、結局のところすべては主観に行き着いてしまうようにも思えます。

さらに言うならば意見などは、結局のところ、聞く側、読む側の主観で独自に解釈され発言者、作者の思惑どうりに解釈されるのはなかなか少ないのではないかと思います。

最後にこのコメントも風は風にの経験と合理による主観ということを述べておきます。

2008-06-22 日 07:20:43 | URL | 風は風に #r4cMr7pY [ 編集]

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ほまら

Author:ほまら

楓サーバで活動中、ねぶくろのギルマスになりました、ほまらです。
魔法使い・日の丸扇子・ムーンライトをこよなく愛し、未だサクチケを使わない、このレベルにしては希有なプレイヤーです。お守りはたまに使います♪
Projectムクヤジを頑張っていますが、ブログ更新は頑張りたくない微妙なお年頃。ちゃんと卒業できるかなぁ……(汗

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